野々村被告の再公判のニュースを見て思ったこと。。。
こんにちは 葉菜です。
昨日は野々村被告の再公判のニュースがたくさん流れていましたね。
「記憶にありません」を繰り返す野々村被告の姿に、呆れる方も多かったとか。
みなさんはどんな風にご覧になっていましたか?
葉菜は、「もう心が限界なんだろうな」と思いながら見ていました。
彼の心(自我)が、耐えられないのだろうと。
なので心を守るために、「徹底した否認に入ったな・・・」と思いながら見ていました。
野々村被告は言動の奇妙さから、発達障害?とかなんらかの人格障害ではないか?とか
色々言われていますね。
ネットを見ると「演技性人格障害」が有力のようです。
葉菜も断言はできませんが、なんらかの疾患の可能性は高いように感じています。
仮に演技性の素地を持っているとすると・・・今後の公判は非常に難航するのではないでしょうか。なぜなら「記憶にありません」という強烈な否認(の防衛)は、自分自身を守るためです。罪を認められる程に、心が成熟してない。
分かりやすく?、心の成熟についてボードゲームのオセロで説明してみたいと思います。
健康的な、ある程度のストレスがあっても何とかやっていける人の心はオセロで表すと、1つのボードに白の駒と黒の駒が混在していて白が多めです。白の駒は「良い自分」、黒の駒は「ダメな自分」を表します。ストレスに曝された際は「ダメな自分もいるけど(黒の駒)、良い自分もある(白の駒)からまた明日から頑張ろう!」と思えるわけです。
まず白い駒と黒い駒が共存できることが、心の成熟度の指標でもあります。
逆に抑うつで自責的な人は、自分のボードを冷静に見られなくなっています。黒の駒ばかり見てしまうんですね。本当は白の部分もあるのに見ようとしないし、見られません。
野々村被告の場合、心のボードはほぼ白い駒なんだと思います。
人間誰でもダメな自分(黒い駒)はあるはずです。ない人なんかいません。じゃあ黒い駒はどこへ行ったのか…?ここが未熟性と言われる所以ですが、「黒い駒を黒い駒として認められない」。要は「自分のダメなところを認めることができない」のです。なので本当は黒い駒なのに白い駒として捉えていたり、もしくは駒自体無くしてしまうかもしれません。
なぜこうなるかと言うと、一つでも黒い駒が入ると(もしくは黒にひっくり返ると)、全部黒い駒になってしまうのです。それだけ黒い駒は強く白い駒が弱いのです。したがって白い駒(良い自分)と黒い駒(ダメな自分)の共存もできません。実はこういう方は常に自身がなく不安を抱えていると言われています。人間はダメな自分だけでは精神的に生きていけません。なので白い駒(良い自分自分)ばかり集めようとしたり、一部が黒になりそうな場合は必死に防衛するわけです。(今回の「記憶にありません」発言もこれかなと思います。)
このような心の構造になる理由は諸説ありますが、精神分析の観点では乳幼児期をポイントとして考えます。(ここでは割愛します。)もちろん意識的に行っているわけではなく、キャラクター(性格)の一部になっています。
以前、ご本人がマスコミの過剰報道に苦言を呈して自殺を仄めかしました。もしこういう心の持ち主であった場合、自分自身の非を認めるということは精神的には自殺を考えるに等しいくらい追い込まれるという意味では、あながちウソではないということになります。(実際に行動に移すかは別です。)
話は長くなりましたが、要するに時間を掛ければ・・・、説得すれば罪を認める・・・というパターンは難しい。
しかも自ら自殺を仄めかしたり、記憶障害と言ってみたりと、何らかの精神面の診断がつくことに抵抗が少ないように見えます。
(心理の世界では、「親和性が高い」と言ったりします。)
したがって、重度のストレスにより野々村被告に不眠や抑うつ症状、食欲低下など何らかの症状が出現した際、それを「盾」に何かを言ってくる可能性も否定できません。
検察側はそれを見越して、3月末までの拘留延期をしたのかもしれませんね。
いずれにせよ、非常に難航することが予想されます。
法に触れることをしたのであれば、しっかり罪を認め償ってほしいと思います。
しかしそれだけでなく、ネットに載っている野々村被告の生い立ちを見る限り、ご本人も周囲と上手く行かず今までかなり苦労されたのではないかと思います。
今回を期に、必要であれば適切な治療を受けながら、前に進んでほしいと願っています。